大河ドラマ『真田丸』を実現させた “軍師” 。歴史プロデューサー・六龍堂の生きざま
- 早川 知佐(はやかわ ちさ)
- 歴史プロデューサー「六龍堂」主宰 信州上田観光大使
1977年生まれ、東京都出身。1998年、株式会社ブックマートグループに入社。日本初の歴史専門ショップ「歴史時代書房 時代屋」の企画を担当し、2006年2月にオープン。初代店長(女将)となる。その後独立し「六龍堂[ろくりゅうどう]」として活動を開始。歴史イベントの企画立案や執筆、講演を行う。2008年7月、戦国武将・真田幸村への熱意を長野県上田市長に認められ、信州上田観光大使に。 “歴史で地域活性化” のため、各所で活躍の場を広げている。
署名数は約83万! 真田幸村の大河ドラマ化のため、奔走
―女将、本日はよろしくお願いします!
お久しぶりですね! こうしてお話するのは何年ぶりでしょう?
―2012年以来なので、4年ぶりですね。
もうそんなに経ちますか! ご活躍で何よりです。
―とんでもない、女将にくらべればまだまだです。特に昨年から今年にかけては『真田丸』の放送、ご出産、育児もあって、大変な年だったのではありませんか?
本当に、環境が劇的に変りました……でも昨年産休に入ってから、メインでやっていた歴史イベント企画のような長丁場の仕事はあまりできないので、今のお仕事の9割は講演活動です。
―講演は、やはり『真田丸』に関するお話が中心ですか?
『真田丸』に関することはもちろん、 “歴史で地域を活性化させる” ことについてお話することが多かったです。『真田丸』効果で長野県上田市をはじめとして、各地の真田ゆかりの観光地はずいぶんにぎわいましたから。
「どうやって大河ドラマ化を実現させたのか」「どう上田を観光地化していったのか」など、特に自治体関係者の方々は熱心に耳を傾けてくださいますね。
―上田市の場合も、平成21年から「真田幸村を大河ドラマにしよう!」という署名運動が盛んでしたよね。
署名運動が大河ドラマ化にどの程度まで影響したかはわかりませんが、結果的に署名は83万ほど集まったんですよ。
―は、83万……!?
最初は66万6666が目標だったんです、真田の家紋の六文銭にちなんで(笑)。
それまでは『篤姫』(2008年放送)が最高で、30万集めていました。「倍はさすがにムリじゃない?」って思ってたんですが……2年間で目標達成、3年目で83万近くになりました。それを持って、渋谷にあるNHKさんまで行きましたよ。リヤカー引いて。
―(笑) 『真田丸』放映と、出産・子育ての時期が丸被りでしたが、出産ギリギリまで仕事をされていましたし、復帰もものすごく早かったですよね?
正直、止まっているのがつらかったんです。誰かが『真田丸』関係の大きな仕事をしているのをSNSとかで見ちゃうと、もうそのたびに悔しくて! 育児が足かせのように思う時もありました。
でも、よくよく考えてみたんです。私が上田観光大使としてやるべきことは、こうして上がった真田熱を、来年以降も長く、かつ急に落としすぎないようにすることじゃないかって。
今まで大河ドラマ化した地域を見ていても、ドラマが終わってにぎわいがガクンと落ちてしまうところもあれば、ゆるやかに落ちていけるところがあります。
このどちらになるかは結局、地元の方のがんばり次第なんですが、それをお手伝いするのが私の役目。来年ががんばり時ですね!
大切なのは、郷土を誇りに思い、歴史をつないでいくこと
―「戦国Bar」など、これまでいろんな歴史イベントを企画されています。歴史を扱うことについて一番難しい部分はなんでしょう?
「歴史」と言っても、その人の立場によっていろんな主張、捉え方があります。だから私の解釈で歴史を語ると、ほぼほぼ何かツッコミが来るんです。そこをどうしていくかは、ずいぶん悩みました。
でも私は研究者ではないし、新説を出したいわけでもありません。単純に、みなさんに歴史のおもしろさを知っていただきたい。そして郷土に誇りを持っていただきたいんです。
そうするためには、私が“おもしろい” と感じたことを、そのまま皆さんお伝えするのが一番の近道じゃないかと。歴史への入口を広げるまでが、私の仕事だと考えています。
―今一番、やりがいを感じる時は何ですか?
以前、上田市の小学校で子どもたちに真田家について話したことがありました。本当に子どもたちって何でもストレートに受け止めて、感動してくれるんですよね。それに私のほうが感動しちゃって……(笑)。
“歴史をつないでいく”ことが私のひとつのテーマなんですが、そのためにはやはり、新しい世代に歴史を知ってもらうのが一番。特に子どもができてからは、それを強く思うようになりましたね。
―女将自身は、何がきっかけで歴史好きになったのですか?
父が歴史好き、母方の祖母が時代劇好きだったので、その影響が大きいですね。
あとは『まんがはじめて物語』という、モノの成り立ちを紹介する子ども番組に、すごく夢中になったんです。「モノにはなんでも歴史があるんだ!」と興味津々で見ていました。
オタクだからこそわかる、「歴女」たちの複雑な想い
―学生時代、なりたかった職業や夢はありましたか?
音楽の世界で働きたいと思っていました。演奏はできないけれど “縁の下の力持ち” のような存在にあこがれていたので、音楽プロデューサーを目指していたんです。
でも音楽業界が低迷し、専門学校の先生に「お前のやりたいことは、たぶんこの先はないぞ」と言われてしまい……どうすればいいか迷いましたね。
―将来の見通しが立たなかったんですね。
漠然としてましたねー。社会人時代はオタクだったので、コスプレばっかりしてましたよ。コスプレをしにアメリカまで行ったことがあります。
―えっ!? 初耳です!
そうでしたっけ(笑)。アメリカのオタクイベントで『戦国無双(※)』のコスプレをしたんですが、これが大ウケで。海外の人が、戦国武将の名前を知ってるんですよ。こういう形で伝わっているってすごいことだなあと思いました。
―戦国ゲームがきっかけで「歴女(レキジョ)」という若い女性が増えましたが、女将はその元祖だといわれていましたね。
「時代屋」を運営していた2006年ごろですね。最初は「歴女」って言われるのが本当にイヤでした。ミーハー扱いされている感じがしましたし。
でも、まずは歴史を盛り上げることが大切でしたから、私が自分から「歴女」としてどんどん乗っかるべきだと割り切りました。ゲームから入ってそのまま歴史にハマる人も多いですし。
―昔は、歴史は「大人の男の趣味」というイメージで、女の子で歴史好きというとちょっと奇異な目で見られたりしましたよね。特にゲームから入ったと言うと、古参の歴史ファンから「ニワカかよ」とか言わたり。
そう!でも幸村様だって、もともとは江戸時代の講談や歌舞伎で演じられたから庶民に人気が出たんです。今はそれがゲームになっただけ。昔からなん~~にも変わってないんですよ。だから彼女たちが肩身の狭い思いをする必要はないし、バカにされるいわれもないんです。
私自身もオタクですから、ゲームやアニメから入ってきた子たちにはすごく共感できますし(笑)入口はなんでもいいんですよね。
組織の人間として葛藤した時代
―就職はどうしようと考えていましたか?
卒業する直前、アルバイト先のステーキ屋で太ももを7針縫う大けがをしてしまいまして、そのおかげで就職活動ができませんでした。
長く歩き回れないけど働きたかったので、近くにあった古書店のブックマートでバイトを始めたんです。そこから、そのままブックマートグループの社員として働かせてもらうことになりました。本が大好きでしたからね。
―歴史専門ショップ「時代屋」をつくったのもブックマート時代ですよね。
「若い女性がつくる歴史専門店をつくろう」という社長の一声で決まり、私が立ち上げを担当することになりました。会社としても一大プロジェクトの規模でしたね。
当時、私はブックマートの最古参で最年少、そして唯一の女性社員として入社しました。店長もやらせていただいたし、「できる」という自負がありました。
でも、やってみたらそれはもう、死ぬほど大変で大変で……。自分の “井の中の蛙” っぷりに、すっかり自信を失ってしまいました。
何より、自分が思う通りの店づくりができなかったことがつらかったです。出した案はことごとく却下、却下、却下……。会社にまったく受けいれてもらえませんでした。
オープンの日の金曜日はTV局の取材があり、その日の夜のうちに放送されたんです。この反響がすごくて、土日はお客さんであふれかえりました。
でも、月曜は客足も落ち着きまして。もともとお店を出した神田小川町はビジネス街でそこは事前調査済みでしたし、当然会社も理解していると思っていました。
ところが次の日、社長に呼び出されて、客足が落ち込んだことをものすごく叱責されました。どんなに説明しても「言い訳だ」と言われ……組織の人間として仕方ないとはいえ、もう心身ともに、ボロボロでした。
それでも、店に来てくださる方はみんな喜んで歴史の話をしてくれるし、歴史が好きだからここで働きたいという子もいました。みんな“歴史を語れる場所”をずっと求めていたんですね。 「時代屋の女将(店長)」として半年間がんばれたのも、そのおかげだと思います。
歴史プロデューサー・六龍堂の誕生
―ところで真田幸村との出会いはいつごろだったのでしょう?
「時代屋」をやる少し前、それこそコスプレのためにアメリカに行った時なんですけれど(笑)飛行機に乗っている間に読もうと思って手にしたのが、池波正太郎先生の『真田太平記』だったんです。読んだらもう、興奮して、眠れなくて……。
『真田太平記』の舞台のほとんどが上田でしたので、それから月に1回は上田に行くようになりました。
―私が聞くのもアレですけど、真田幸村の、どこに一番魅かれたのですか?
今では英雄視されていますけれど、当時はどちらかというとお父さんの昌幸様のほうが策謀家で有名でした。幸村様はこれといった手柄もないまま九度山に流され、14年間、3~40代の男盛りをその地で過ごしました。普通だったらクサりますよね。
でもそんな無名で力を持たなかった人が、天下人の首を狙おうとした。そういうスケールの大きさや思いの強さに、すごく感銘を受けたんです。
400年前に実際にこんなにがんばった人がいるなら、私もがんばれるはず。「時代屋」をしていたころは、本当に幸村様にはげまされていましたね。背中を押してもらえる存在です。
―ブックマートグループを退社したあとはどうされたんですか?
フレンチレストランでサービススタッフをしていました。飲食をやればいろんな人に会えるし、きっと今後に役に立つと思ったんです。
案の定、仕事はものすごく大変でしたが、「人間は35歳で固まるもの」と聞いたことがあったので、35歳までは自分は底辺だと思い、何でも吸収してやろうと思っていました。
それをしながら、「時代屋」でお世話になった方々の縁で、“軍師” という名目で歴史イベントの企画のお手伝いをしていました。
でも「軍師・早川知佐」ってなんとなくすわりが悪かったので、六龍堂という屋号をつけたんです。六は六文銭で、龍が好きだったので龍を、それに構えの形を入れて。
―渡部商店の渡部さん(※)に会ったのもこのころですよね。
渡部社長が営業しているショットバーで、歴史好きが集まる場をつくろうとしていました。ちょうど水曜日に店員の空きが出てしまったので、そこに入ってもらえないかって。それから毎週水曜日、レキシズルバーのバーテンとして働きはじめました。
「有名人じゃない観光大使」としての信念
―上田観光大使になったきっかけは、TV番組でしたよね。
『熱中夜話』というNHKのトーク番組ですね。テーマが戦国武将で、真田幸村好きの代表として出たんです。
その番組で、あろうことか収録中なのに感極まって泣いちゃって……「泣くほど幸村が好きか!」と、大きく取り上げられてしまったんですよ(笑)。
その放送を上田市長(母袋創一[もたい そういち]氏。合併後より現在3期目)がご覧になっていたそうで、東京出張のついでに友人の店に寄ってくださるというお話を聞いたんです。そこに同席させてもらえることになりました。
市長も、真田家ゆかりの地として上田を盛り上げていきたいという思いがおありでした。そこで「観光大使にならないか」とおっしゃってくださったんです。
「すごいチャンスだ!」と思ったんですが、かなり酔っていらしたので(笑)忘れられないようその日の夜のうちに、手紙を書いたんです。「やる気はありますので、是非やらせてください」と。
そうして1か月後に、上田市から封書が届きました。その中に、観光大使の委任状があったんです。
―まさに真田愛の賜物! 観光大使として、まずどんなことをされたのですか?
地元の方々に挨拶したんですが「観光大使なんていたんだ。ウチはなんにもないよ」っていうリアクションでしたね。上田市に限らずですが、地元の方々って意外と自分の土地の有名人や歴史をご存じない方が多いんですよ。
ですので、まずは上田市の皆さんに真田家のことを知ってもらおうと、講演会やイベントを開いたり、フリーペーパーに真田家のことを書かせてもらったりしました。
―観光大使といえば、その土地に縁のある有名人が、自分の知名度でもって街を盛り上げていくというイメージですよね。
そう、私にはそれがないので。だから「動くしかない」って思っていまいた。
上田市出身でもない、ただの真田好きから来た私に、何ができるのか……それを考えて実行するのが、私なりの観光大使の仕事だと思っています。
“人生の九度山期” を乗り越えて――恩返しのために働く生き方
―女将のように、「好き」を仕事にしたい人に対して、アドバイスはありますか?
ものすごく大変なことを覚悟すること、そしてすぐに結果が出るとは思わないことです。
「何か歴史の仕事を自分もやりたい」という若い人も多いですが「何か」というだけじゃダメなんですよね。もっと明確な自分の強みを持って、自分から動いていかないと何も変わりません。
そのためには、やりたくないこともやらなくてはいけない。そういった積み重ねで、突破口が開けるんだと思います。
―女将がまさにそれを体現しておられますよね。今まで「この仕事、やめようかな」って思ったことはないんですか?
ありますね。イベントでお客さんが全然来なかった時とか……(苦笑)。
―それでもあきらめずにやれたのはどうしてでしょう?
その時、まわりにいてくれた人たちがいたからです。
「時代屋」をやめる時も失敗した時も、「早川さん、絶対にまた一緒にやりましょう」「これくらいの失敗で落ち込んじゃダメだぞ」っていろんな方にはげまされ、それで何度も持ち直しました。
皆さんの助けやご縁で、今の私があります。上田観光大使の仕事は真田家と、真田家の縁でつながった皆さんへの恩返しだと思っています。
―それでは最後に読者のみなさまへメッセージをお願いします!
夢をかけるべきものがあるなら、あきらめないでほしいです。道なき道を切り拓くのは大変ですが、ふと振り返ってみたら自分のうしろに道ができているのって、すごく楽しいことですよ。
結婚や出産などで、どうしても立ち止まらなければいけない時もあります。でもそれは “人生の九度山期” みたいなものです(笑)。たとえ自分が動けなくても、手を差し伸べてくださる方がいれば、それはあきらめずにがんばってきた証拠です。
目の前にチャンスがあったら尻込みしないで、すべてやってみてほしいです。幸村様のように来たるべき時に向けて、力をたくわえてください!
[取材執筆・構成・インタビュー写真撮影] 真田明日美