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スポーツを愛しながら、商社&PR企業にも登板!木下博之氏の“ナイスガイ”なキャリア変遷

株式会社ナイスガイ・パートナーズ 木下博之
木下 博之(きのした ひろし)
株式会社ナイスガイ・パートナーズ 代表取締役

熊本県生まれ。熊本県立熊本高校、慶應義塾大学商学部卒。1998年、三井物産株式会社に入社し、スポーツ用品や紙など消費財の輸出入を行い、米国や中国への駐在も経験。2004年、株式会社サニーサイドアップに転職。アスリートのサポートのほか、日本版「ホワイトバンドプロジェクト」を主導するなど数多くの実績を残す。2009年、株式会社ナイスガイ・パートナーズ(最寄り駅:築地)を設立。アスリートに対するライフサポート業務や商品・サービスのブランディング業務を行い、現在に至る。
慶大野球部時代には副主将を務め、4年生の時にチームをリーグ戦優勝に導く。東京六大学野球リーグベストナインを2度受賞するほか、東京六大学選抜や大学日本代表候補にも選ばれるなど、野球界に足跡を残した。
高橋由伸氏(読売ジャイアンツ第18代監督)とは大学時代の同期で、チームメイト。

“ナイスガイ”な大人たちの人生を、強力にバックアップ!

ナイスガイ・パートナーズ

―ナイスガイ・パートナーズの事業内容を教えてください。

  現役の野球選手を中心としたアスリートたちのエージェント、マネジメント、キャリア支援を行っている会社です。わかりやすくいえば、引退を控える彼らの今後をふまえたライフサポートをしています。

  ほかにも過去にやってきた仕事のノウハウを活かして、企業が扱う商品やサービスのプロモーションやブランディング、マーケティング全般のお手伝い、いわゆる広告代理業も行っています。

―「ナイスガイ・パートナーズ」という社名、とても印象的ですね。

  自分のことをナイスガイと言っているわけでは決してありません(笑)。顧客であるアスリートたちのことを、我々は「パートナー」と呼んでいます。

  お互いを尊重し合える“ナイスガイ”な大人たちと我々でパートナーシップを組み、会社が彼らとその関係者の社交場となるように、という願いをこめています。

―今まで、どんな選手のサポートをされてきましたか?

  今年FAで千葉ロッテマリーンズから東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍した今江敏晃[いまえ としあき]選手、プロゴルファーの宇佐美祐樹[うさみ ゆうき]選手といった現役選手はもちろんですが、スポーツ心理学博士の布施努[ふせ つとむ]さんや、ゴルフコーチの吉岡徹治[よしおか てつじ]さんといった、選手を支える側の方々もパートナーになっていただいています。

―パートナーには野球選手が多いようですね。

  そうですね。自分のバックグラウンドが野球ですので野球選手とは共通言語で話し合えますし、野球の世界には様々な組織があるので、それをある程度以上、把握できているという点においても私の強みになっていますので。野球選手が必然的に多くなっています。

―ナイスガイ・パートナーズのこれからのビジョンを教えてください。

  プロスポーツ選手に限らず、アマチュアも含めたアスリート……大学生でいうと体育会に所属する学生ですとか、そういった人たちが競技を辞めた後も輝けるような人生を送れるお手伝い、「キャリア支援」を事業としてしっかりと伸ばしていきたいですね。

  一つの道を極めたアスリート達も、それだけで一生食える人なんてほんの一握り。個性ある人材を適材適所に結びつけて、社会がより活性化するような動きをビジネスとして大きく育てられたらと思っています。

  自分も学生時代にはスポーツにかなり没頭していたため、自分の将来について真剣に考えることがほとんどなく、振り返れば「ああすればよかった」「もっと視野を広げておくべきだった」という悔いや反省が多くて。例えば、10代のうちに海外に1年でも行って、もっと世界を感じておけばよかったなぁ、とか……。そういったことを、若い世代に伝えていきたいんです。

  彼らが結果的にプロの道を選ばなくても、自分らしく生きられる場所、自分の居場所が見つかるように、彼らに合った企業や組織とマッチングさせられるサービスの創造。それを今後のビジョンの一つとして掲げています。

ひたすら野球に打ち込んだ学生時代。しかし、とある天才選手の登場で……

ナイスガイ・パートナーズ木下博之さん

―木下さんご自身、大学4年生の時にリーグ戦優勝を果たしたうえ、東京六大学選抜や大学日本代表候補にも選ばれるほどの実力をお持ちの選手でした。野球はいつごろから始められたのですか?

  幼少期に2人の兄たちが野球をやっていてその影響からおのずと、ですね。末っ子の僕にとって兄たちのプレーやしぐさは憧れで、兄の背中を追いかけながら、自分も真似てボールを追いかけて……で、結果的に自分が一番できちゃったんですけれど(笑)。

  僕の実家の熊本にはいわゆるリトルリーグといったものが少なく、基本的に軟式野球、学校での部活動が中心でした。で、楽しくてそのまま大学までやっていた、という感じです。

―プロを目指そうとは、考えませんでしたか?

  「いけるかも?」と一瞬思えた時期もありましたが……足もない、肩もない選手じゃ現実は厳しいなって思ってましたし、今、巨人軍の監督をやっている高橋由伸くん。彼は、僕の同級生なんです。彼が慶大野球部の主将を務めていました。

  もう、彼のプレイを一目見た時から「ああ……こういう選手がプロになるんだ」と感じましたね。だから自分はもう、野球は大学で区切りをつけてビジネスマンになろうと。そんな感じで、いい意味ですっぱりと諦められましたね。
  まあだからこそ、野球と今でも良い関係でいられているんじゃないかなと思っています。

―野球以外に打ち込んでいたことはなかったですか?

  ないんですよね。幼いころからずーっと野球をやっているせいか、それをやめるという考えにもならなくて。1年間、ほぼ休みなく練習していました。

  それはそれでいいこともありますが、今思えば、やっぱりちょっともったいなかったなって思います。自分の価値を高めるために、野球以外でも何かなかったのか。そのあたりの経験とか体験とかをもっと増やして、そこで得られる対応力、発想力、コミュニケーション能力を、もっと若いうちから身につけたかったですね。

―運動部にいると、活動費用がかなりかさむと思いますが、ご自分でやりくりをされていたのでしょうか?

  そこは本当に両親に感謝ですね。どうしても自分の時間が取りづらいこともあって、ほとんど親からの仕送りでまかなっていました。

  でも年末年始など空いた時間には、お中元やお歳暮の配達のバイトや、家庭教師のバイトといった、単発でもできる仕事はしていました。

―学生時代の経験が今の仕事につながっていることはありますか?

  相手の目をしっかり見て話すこと、頭を下げて挨拶をすること……など、目上の人に対する礼儀作法を、先輩からしっかり教えてもらいました。それはとてもよかったなって思っています。多少の理不尽もありましたが、それを若い時に経験できたからこそ「人の気持ち」を考える、くみ取るみたいな姿勢が身についたように思います。

  最近は会社に入っても厳しく指導してくれたり、叱ってくれる先輩が減ってきているようですが、僕は新卒で入った三井物産でいろんなことを徹底的に教え込まれましたので。今思えば、とてもラッキーでしたね。

何も知らなかった自分の人生の転換点となった、海外という舞台

株式会社ナイスガイ・パートナーズ代表 木下博之氏

―野球で生活することは目指さずに、大学3年には就職活動をされたんですね。入社した三井物産のほかに、どんな会社を受けましたか?

  同じ商社の三菱商事や、三井不動産、ソニー、日本石油(現JXエネルギー)といったところです。より大きな舞台で、自分を試せるような企業を選択していました。

  あとは、野球部のOBの方の話を聞いて自分なりに判断して。それで、最初に内定をもらった三井物産に決めました。

―三井物産ではどんなお仕事をされていましたか?

  最初の配属先は、スポーツ用品を扱う営業部署でした。そのなかでもボウリングのボールやレーンの輸入を担当していました。海外へ出張することも多かったですし、日々英語と格闘してて……うん、大変でしたね(笑)。

―三井物産の経験で、今につながっていることといえば何でしょう?

  コミュニケーションの大切さですね。特に目配り・気配りが身についたと思います。というのも、歓迎会や送別会などの幹事を毎週のようにやらせてもらっていまして。

  幹事って、人数の調整や場所決めなど正直、面倒くさい役目なんですよね。けれど「今日はどういう目的の場か」「どうすれば場が和むか」「どうすればみんなが気持ちよく過ごせるか」など、相手のことを思いやる姿勢がすごく身についたと思っています。

  相手への気配りは仕事でもすごく大切なことですし、その点は今でもとても役立っています。

―海外出張ではどんな国へ行きましたか?

  アメリカへ半年、中国へ1年ですね。ボウリングの工場がアメリカのミシガン州にあったんです。で、そこで商品がどのようにつくられ、どうやれば日本にもっと効率よく流せるか、どうすればボウリングを日本で流行させられるか、なんてことをレポートしたり。

  中国では、広州やその下の香港に日本の会社さんがたくさん工場を移設してきた時期だったので、そこで部材調達のお手伝いをしたりしました。

―「若いうちに1年くらい、海外に行っておきたかった」というお話をされていましたが、それはこの時の海外出張のご経験が、木下さんにとって得るものが多かったということでしょうか?

  僕は今、起業して会社の代表取締役をしておりますけれど、三井物産での海外経験がなかったら、今の僕はいませんね。それまでまっさらだった自分が海外でものすごいカルチャーショックを受けて……視野が一気に広がったんです。

  グローバル化が進む中、日本の終身雇用制度や年金のような社会保障もこの先どうなるかわからないし、世界に比べたら日本のグローバル化はまだまだ発展途上。だから今から自分の武器をしっかり持っておかないと生きづらくなる。それをすごく感じましたね。

  じゃあ自分の武器はなんだ?と自問自答したら、やっぱり「スポーツ」かなと。今さら選手は難しいけれど、選手を支える役目だったらできるのではと。

  そのころ、選手のエージェントやマネジメントの仕事というのは世間で注目を集めつつありましたので、じゃあそれを自分のライフワークにしよう、と決めたんです。

―海外で仕事をした経験が、自分を見つめる大きなきっかけになったんですね。

  自分の武器を活かして自分らしく生きなきゃ、人生もったいない。そう思った瞬間に、スイッチが切り替わったんですよ。

  三井物産での仕事も楽しかったですが、このまま居続けるよりもちょっと思い切ってやってみようと。ということで、6年2か月で退職をして、サニーサイドアップに転職したというわけです。

サニーサイドアップで手腕を発揮!そして起業へ

ホワイトバンドプロジェクトと木下博之さん

―転職先に、PR会社のサニーサイドアップを選ばれた理由は何ですか?

  当時、サッカーの中田英寿さんやプロスイマー北島康介さんなどの名だたるトップアスリートがメンバーとして所属していましたし、新聞や雑誌などでサニーサイドアップの名が非常に高まっていたので興味がわいたんです。

  本当は書類審査で落ちたみたいなんですが(笑)履歴書を出して4、5か月後くらいに、社長の次原さん(次原 悦子[つぎはら えつこ]氏)が会いたいと言ってくださって。次原さんの運転手をしながら、すべての打ち合わせに出るなどして、社長室で仕事をさせてもらいました。

  たぶん、その時期の社内で自分が一番次原さんに怒鳴れていたと思いますが、次原さんのホスピタリティ、何かあった時の腹の座り方、度胸には、すごく感銘を受けましたね。本当にいい経験ができて、とても感謝しています。

―サニーサイドアップというと「ホワイトバンドプロジェクト(※)」が印象的でしたが、木下さんはこのキャンペーンのプロジェクトリーダーをされていたそうですね。

※世界の貧困の根絶を求める意思表示として、白いリストバンドを身につけることを呼びかけた啓蒙活動。2005年1月にイギリス、アイルランドで始まり、日本ではサニーサイドアップがPRを主導。著名人やアスリートがリストバンドを身につけている映像や写真は多くの反響を呼んだ。

  この活動を知った社長が「日本でも是非やらなきゃ!」と言い出しまして、僕がチームリーダーとなってイギリスと日本のNPO団体の取次ぎや、ホワイトバンドをつくる工場の手配などをしました。

  こういった啓蒙活動は世界ではメジャーだったものの、日本のNPO団体はまだまだ不慣れなことが多かったので、サニーサイドアップがお手伝いを請け負ったという形ですね。

  誤解もあってずいぶん批判されたこともありましたが、サニーサイドアップにいて一番、自分が実績を残せた仕事だったと思います。

―サニーサイドアップからナイスガイ・パートナーズを起業しようと思ったきっかけは何ですか?

  野球に関わる仕事がしたい、という想いはずっとありましたが、なかなかそのタイミングや機会がなく、目の前にある仕事を懸命にこなす状態になっていました。

  ちょうど会社も上場を果たす時期で、いろんな面で進化するタイミングとなって、そろそろ自分ももうワンステップ前に進んだり、もっと自分にしかできない仕事を創りたいな……とも感じていて。それなら、自分で会社をつくろうと。次原さんも「応援するよ」と気持ちよく送り出してくれました。

―起業はおひとりでされたのですか?

  はい。定款づくりから登記申請などの実務的なことを含め、すべて自分でやりました。
  というのも、僕のしようとしている仕事は、それぞれの選手に合ったキャリアを支援し、アドバイスをしていくこと。たとえば彼らが「会社をつくりたい」となれば、こちらは実体験に基づいたアドバイスをすることができますよね。

  もちろん、僕ではない誰かに任せるという選択もありますが、頼まれた以上、まずは自分が経験をしておかないといけないと思うんです。僕も、自分が誰かに何かを任せる場合、「又聞き」の情報をいう人とは付き合いたくないと思いますから。

  商社に勤めていた時も、「まずは現場に行け」とよく言われたものです。現場で見聞きし、現場でやってみる。そんなことも、社会人になって身についたことの一つです。

“エッジ”を磨くため、数多くの経験を若いうちにしてほしい

ナイスガイ・パートナーズ木下代表よりメッセージ

―木下さんが仕事をするうえで、常に意識していることはありますか?

  “First impression is Last impression”――「第一印象は最後の印象」。人と会って最初に感じた印象は、ずっとその人の印象として残る。これをいつも念頭に置いています。この感覚は、ずっと大事にしていこうと思っていますね。

―木下さんから若い世代へ、メッセージをお願いします。

  “エッジを磨け”。三井物産を辞める時に先輩から贈られた言葉でして、「感覚を鋭くしろ」という意味です。

  先ほどの話につながりますが、第一印象で物事を判断しようとすると、もちろん失敗することもあります。だからそうならないために、常に自分の“エッジ”部分にあたる感覚を研ぎ澄まし、物事を見極める目を持つ必要があるんです。

  いろんなことに興味を持ったり、いろんな場所に行ったり、いろんな人と接したりすることで感覚は磨かれていきます。社会人になってからだと本業もあって動きづらいものですが、学生のうちなら比較的自由にトライすることができます。だから恐れずにどんどん外に出て、経験を積んでいってほしいですね。

  アルバイトは社会のひとつの歯車すぎない、なんて部分もありますけれど、その歯車が一つでも欠けたらその機械はどうなるのか。車だって、歯車があるから軸も回って、タイヤも動くし、エンジンだってその役割を果たせる。社会や会社の軸やエンジンになりたい気持ちがある人は、特にいろんな歯車になってみる経験も必要ではないでしょうか。

  その場所、その仕事のなかで、思考を止めて過ごすのではなく、常に自分の役割を考え、どうしたら人が喜んでくれるかなんて思いながら時間を過ごしたほうが、きっと楽しい人生になる。僕はそう思っています。

<株式会社ナイスガイ・パートナーズ>
〒104-0045
東京都中央区築地2-10-4 築地ミカサビル2F
東京メトロ日比谷線 築地駅より徒歩すぐ

[取材・執筆・構成・撮影(インタビュー写真)]真田明日美

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